「生きづらさ」にも色々ありますが、私がすぐに思い出すのは、
その方が『無意識に担ってきた役割・望まれていると思ってこなしていた役割が、今の自分に合わなくなっている』という状態です。
幼い頃、
親や大切な人からそっと着せられた服のように。
息苦しいことこの上ない。
勿論、着ている本人は必死です。
古くて生地も弱くなっているから、
万が一にも破けないようにと、
緊張して縮こまったり息を潜めたり、縫い目の可動範囲を超えないよう慎重に、とても注意深く生きています。
大切にしていると不思議なことが起こるもので、そのうち役割に魂が宿ったようになり、
魅惑的なイケメンボイスで囁きかけてきたりするのです。
「俺がいないと辛くなるよ、生きていけないかも。もしかしたら死んでしまうかもしれないよ…。」
自分でもわからないうちに、
『もしかしたら、役割自体が自分なのでは?』
という感覚に陥って、
なんだかまるで夏の風物詩のよう。
俳句では稲川淳二が夏の季語になっているそうですが、埃にまみれ薄茶色に変色した役割をなぜ自分で脱がない、脱げないのか。
アカシックレコードやヒプノで遡っていくと、
原因は愛だとわかります。
形や始まりはそれぞれ全く違うけれど、
自分が生き抜くため、『愛されるために』その役割を着ると決めた。
その人が大好きだから。
その服が大切な人からの『愛だと思って』、または『愛だと自分に言い聞かせて』生きてきたからです。
家庭だけに限りません。
学校や職場でも、自分を守るために相手に合わせた服を選び、たくさんの重ね着をしながら、
よりたくさん愛されようとすることで生き延びてきたのが私達なのかもしれません。
ギネスでは、
子供のために260枚Tシャツを着たお父さんが世界記録を保持しているそう。
懐かしい人にたくさん会うことの多いこの季節、思い出話を楽しみながら誰かと向かいあうとき。
自分は果たしていまどんな役割を着ているのか、心の鏡に映してみてください。
サイズは適正か、
流行遅れになっていないか、
現在の自分に似合うのかどうか、
実はもう要らないんじゃないか。
服を選ぶように、役割に意識を向けてみると面白いかもしれません。
いつか着るかもは、着ない服。