役割理論で考える。

ゴフマン(タフマンではありません)の役割理論について考えさせられるご相談が続いています。

仕組みを解って、

望まれた『役割』を引き受けるのか否かは自分で決められると思っていますが、

役割を引き受けたり応えるのが愛だとか、

役割が自分そのものだと感じているとゆーのは相当しんどかろうと。

役割理論を簡単にいうと、

ひとはその場に合わせて様々な役割を演じていて、その役割を関係する仲間内でシェアしている。

他のひとがいなければその役割をしようとも思わないし、またその役割を演じさせてくれているのも、他人。

役割について善悪や快不快を感じたり決めているのは紛れもない『自分』なので、

アカシックには役割をそのまま演じ続ける未来やそうでない未来、理解して改めて引き受ける未来や、起こりうるすべての可能性が無限に入っています。

役割のことについても、

またそうでないことについても、

『このままの日常を続けるのであればたどり着く未来』と、

変えた場合に手に入れる未来は違うものになるんですよ、

ということになります。 

たまに『おんなじことをしていたいのに違った未来を所望』される方もいらっしゃいますが、

こうして考えてみると、

それがいかにおかしなことなのか見当がつくかと思われます。

それでね。

恋人同士として、優しい関係性のときは相手を尊重し大切に愛でていられたんだけど、

家族になった途端に「相手に役割を期待する」ことが起きてしまうわけです。  

どういうことかというと、

例えばツマとかオットという役割を相手が引き受けてくれることを望むのです。

「俺のこと愛してるなら、できるはずでしょこれくらい」

になってしまうという。

ところが、その人それぞれツマとかオットと呼ばれる役割に期待する仕事内容が違うんです。

同じ家庭で育った兄弟でも、両親に抱いているイメージが全く違うこともあるわけなので、

お互いがもつ「ツマ」「オット」をどこまで理解しようとするのか、

どこまで望むのか、

どこまで引き受けるのか。

ほんとはとてもデリケートで難しい問題なのです。

言葉で摺合せしようと思っていても言葉自体が記号であるため、そこに載せている意味や感覚はお互いまったく違うから、本気でやろうとすると大きめのジグソーパズルぐらい難しいんです。

自分の『特別な他者』。

パートナーや家族に対してこそ、察しろとか当然でしょ的なぬるい甘えを捨てないと、

優しいひとほど静かにそっと消えていってしまいます。

家族だから、夫婦だから、恋人同士だからと油断して、

微かな違和感を放置したり、

色んなことに対して起きるズレを放置してしまったりするてえと、

日本海溝とかマリアナ海溝ぐらいの深さの溝なんてあっという間に作れてしまうのです。

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家長制度で守られていたツマとかオットという関係性だって、

この先いつまで意味を持つのか解らない世の中を私達は生きています。 

関係性に保証なし。

オットとして、ツマとして生きられること、親として生きられること。

役割を演じたい自分を支えてくれているのは、  

実は相手の存在だと気付ける瞬間がもしあるとするならば。

今そばにいてくれるだけで泣けて来るような奇跡であることや、

相手の今までの頑張りや、

役割の向こうに待っていてくれる相手の柔らかい魂に、やっと手を伸ばすことが出来るんでないのかなと思ったりもします。

相手にも、相手の大切にしたい自分があることをまんず知ってほしい。

相手に映してもらわないと、自分が存在しないことを知ってほしい。

それは特別なひとでなくても同じこと。

自分の目の前に生きているすべての命が同じことなのです。

私達はそういうすごい世界に住んでいることを、深い思いやりとともに、よろっと思い出さなければならないのではないかと。

多様性を意識した途端にそれがなくなってしまうように、

自分の大切なひとだ、親しいひとだと思った瞬間に見失ってしまうなにかを、どうか忘れないでほしいのです。

手のひらの中でかすかにひかる蛍のように、

どうか大切に大切に慈しんでほしいと願うのです。

庭崎48歳、

自分に言い聞かせている土曜日の昼下がりです。

#アカシックレコード

#役割理論

#チチハハももちろんなんじゃ

#あらゆる役割があるんじゃ

#夫婦や家族は他人よ

#もちろん恋人もね

山、自然、雲の画像のようです

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