『宝島』のこの音は‥!?と思ったら、エンドロールですっきり。大好きなシエナ・ウィンドオーケストラでした。
宝島マニアとしてはそこは聴き逃がせませんでしたとも。
内容は現在の環境や自分のために読んでいる本とものすごくリンクしていました。
どんなに心を砕いて、
「正しさ」や「安定」や「このまま」を求めて細かく気を張りつめていたとしても、必ず事件が起こってしまうのが人生です。
自分の心に嘘をついて、誰かが望んでいるだろう役割を完璧に演じきったとしても、必ずそのときはくるのです。
すべてが移りゆくもの、変わっていくものだからです。
「なんで俺が」って思うような何かを食らったところからが勝負で。
衝撃に耐えきれず挫けてしまうのか、それとも現時点で何かが足りない駄目な自分を受け入れて先に進むと腹を括るのか。
目指す幸せな状態とは、甘えや依存、恐れを乗り越えた先にある、本当の自立。
この自立がないと、実際誰とも繋がれない世界を愛することができない私達は、
日々どうしょもない現実と自分を抱えて、日焼けの皮を剥くようにヒリヒリしながら生きていくしかないのです。
『どこかの段階で、「親を恨んでいても先に進めない」と悟ったとき、「自分は先に進むのだ」と決断したとき、それが人間にとって第二の誕生日である。
そこから新しい世界が開けてくる。そこから新しい道が拓ける。 それは人間の尊厳を賭けた決断である。』
(加藤諦三 自立と依存の心理学)
やさぐれている阿部ちゃんが元旦那に見えたり、
若い刑事さんがビジネスパートナーに見えたり、
どの登場人物にも自分が見えたりして。
本当に、『物語』の力は強い。
ああ、
誰かのせいにしてる場合じゃなかった。
あのときもあのときも、
みんなそれぞれ、出来る範囲で本当に一生懸命してくれていたのだなぁと感じ、ストーリーとは関係のないところでこみ上げてくる涙を止められなかったりして。
やな思いしてさせしまった大事なひとたちに、
私は心から「ごめんなさい」と、「ありがとう」を言いたかったんだなぁと思いました。
激動の今年前半戦をおわって、
誰かにヨクヤッタってよしよし言って貰いたくて仕方なかった泣き虫こどもな自分と、
母なるものや無条件に慈しまれた経験がない私は、
望んだそれをしてあげられるのはこの世にたったひとり。
自分しかいないのだということを改めてお腹に落として。
少しでも自分を好きでいられるように。
戻らない日々に手をふって、
この自分と生きることを受け入れて、諦めずにやっていくしかないのです。
会場はほぼ満席。
観に来てる方の年齢層、割とお高めでした。
テーマでもある「ひとはいくつからでもやり直せる、生まれかわれる、結び直せる」という『自分の可能性』を、心のどこかでかたく信じておられるからでないかと。
同じ回で映画を観ていたひとや、この映画に関わるすべての人生が愛おしくなりますよ。
こんな私ではありますが、
これからもゆっくり。
きちんと大人になっていけますように。
