「かっこいい女とは自立していること。自立しているとは情緒的に安定していること」とどこかの記事で見かけて。なるほどそりゃ確かに一見理想的だな思ったし、今年8月までの私がそうだったなと振り返る。
安定が一番いいよね、そりゃわかる。まったくもってその通りだし、安定するための生活の仕方も勿論知ってる。ぷち鬱を脱出するには、セロトニン出すためによく噛んだりたっぷり寝たり、ビタミンBなんとかをとったり散歩したり、身体に良い方法もなんとなく知ってるよ?でも、違うんだよなぁって。大きなイベントを乗り越えて、ふとため息をつく瞬間にそれははじまって。あとは津波のようにいきなり来るんだよな…、と回想してみる次第。
その記事でのいい女の定義からすると、キレた女性は男性にとって本当に恐ろしいので(それはわかります…)、男性を怖がらせないためにビーストモードにならない、いつでも自分の軸を持っているのがクールな女性となっていました。確かに素敵かもしれない、それができるってよほどの強さがあるってことなんかもな。。
でもなぁ、それっていいことなのかな。自分を客観視できるのはとても必要なスキルだけど、男性から見られた自分はこのテーマにいるのかなとかどうなのかなとか。いきなり自分軸ですよって言われて起き上がり小法師を目指すのだとしたら、それは本当の意味でクールな女性じゃなくない?
依存に近いほど信頼している相手にしか見せられない自分とか、実は隠し球として持ってるじゃないですか。
むしろ、
そっちの方がホントの自分かもしれないじゃないですか。
私はといえば、自分がみっともなく揺れたり泣き喚いたとしても、オロオロしたりキレたりしながらも、逃げずに向き合ってくれる方と共にありたいと願うわけです。
良いところだけを提供しあっても、私の望む深い関係性はないわけで。
そのドロドロのぐちゃぐちゃと向き合った先にしか気付けないこともあるじゃないですか。
もしかしたら、これって自分の親にやってもらいたかったことだったり、やりたいことだったかもなって。
そんなこんなの先にしか、
手に馴染む未来は無いとこれもんで。
生物としても、女ってだけもいつでも飄々と生きていられるわけがないもんな。
ホルモンや様々な要因で、もとから揺れやすいようにできてるんだもの。
黒部第四ダムより大きくて深い感情の湖。
186メートルもあるその堤体を作るのだって、いくつもの破砕帯や吹き出す温泉や冷たい地下水に翻弄されて、171人の犠牲者を出すほどの難工事だったじゃないですか。
人知れず積み重ね少しずつ補強してきた心の堤防が、そんなに簡単に壊れることなんて、普通に考えればあったら困るわけで。
でもだからこそ。
外から観れば観光放水とか発電とかしちゃってさ、石原裕次郎を主役に映画もできたりしちゃってさ。
今現在その威容を立派にかっこ良く見せることができてるんだとしても、ですよ。
他のだれも見ようとしてくれない天端から奈落にも近いダム底を覗き込む勇気と、
奥の山脈や源流にまで馳せられる想いがなければ、いまここに身体を持って生まれてきた意味とかないんじゃないのとか。自分が自分であることを放棄してんのと同じことなんじゃないのとか。
人間として生の感情を避けようとひたすらに逃げるのであれば、それはあんまり生きてる意味がないんじゃないかと。
そんなことすら思ってしまうのです。
情緒的に安定とは単に楽観性であるとか、鉄壁の揺れなさ加減がかっこいいわけではなくて。
どんなに波々揺れても、引力の関係で自然にバランスがとれる線まで戻れること。
そのバランスをとるには、まず端と端を知ったり、上限と下限を知らなきゃならないし、
どうしょもない部分も含めて、まるっと自分を受け入れてあげなきゃならないという過程が、必ずあるんじゃないかということ。
県知事が箱物を作りたがるように、
人から称賛されるような美徳とか表向きの成果を追い求めるのも楽しいけれど。
もう逃げられないと退路を断って、内側で起こることに黙々と集中しつづけるその過程こそが、自分の人生を生きるということなのではないかと、思ってみたりもするんですよね。
快や不快でかんがえるのであれば、
やせ我慢してその場を取り繕ったりしのぐのは快ではないと知ってしまったということ。
実はなかったことにしない生き方の方が格段に力がいることだし、うんとかっこいい女ではないかと私は思うんです。
なかったことにするのはね、
うちら昭和女子にとっては、誰かのためだとか言い訳しながら、息をするみたいに自然にできちゃうこと。
これから先の時代にとっては、ヨシとされてきたその方法はもしかしたら、一番傷つきたくない人が選ぶ安易な道という見方に、
じきにがらりと変わってしまうのではと感じているのです。
私達は大人ですから?
いちいち他人の言動に目くじら立ててみようぜ、とお勧めしているのではなく。
自分の内側で起こったことを、自分は大切にしっかり受け止めるぜ、っていう心意気を持つとでもいいますかね。
いい女とはどんな恥や傷を抱えていたとしても、また時たま泣いたり怒ったり落ち込んだりしたとしても。
全部を引っ括めて、かつ先に目指したい自分も見据えて「これが私」と不敵に笑える女のことを言うんじゃないかと思うわけですよ。
よかったら、聴かせてください。
その仮面を被りたくなった最初の訳を。
なぜ愛するひとのために、
クールでいなければならないのかを。
痛む心をなかったことにしてまで、なぜ誰かの役にたちたいと痛切に願っているのかと。
自分でいられなくなったその訳を。
話すだけで、外側に出すだけでうんとうんと楽になるんですよ、それはもう、本当にびっくりするくらい。。
あまり頑なにして、
先に行って折れちゃわないようにしたいよね。
そんなことを考えながら、この曲を思い出した真夜中です。
